Thursday, May 31, 2007

女性科学者

ときどき読むブログに次のものがある。

http://science-professor.blogspot.com/

アメリカの大きな研究型大学に勤務する女性科学者のもの。アメリカのサイエンス業界でも、女性科学者の位置はまだまだ日々の闘いなんだということがわかる。

こうしたブログはアメリカだけでも何十万、何百万人が書いていると思うが、感心するのはその文の長さと、文がちゃんと「公共化」を意識して書かれていること。

いかに私的なパブリッシングとはいっても、文章が体をなしていなかったり、誤字脱字が多かったりしては、みっともない。英語圏の強さは、たとえば新聞記事の長さを比べてみるだけで、はっきりする。だが、この長さで毎日書き続けることは、ちょっとできない、ぼくには。生活時間の見直しからやらないと。

読むことと書くことの比率は大きな問題だが、いまは(むかしも)読むことの比率を圧倒的に高めたい気分。いわゆる「忙しい」(何かしらこまごました作業が溜まっている)ときに、まず犠牲になってしまうのが読む時間で、それがつづくと確実にダルな心になってゆく。

Curiosity, Understanding, Friendship

ぼくはテレビをほとんど見ないので(こどものころからずっとそう)、テレビ文化を知らず、どんなテレビ番組があるかも知らない。でもときにはおもしろい番組があることを疑わないし、心に残る番組もいくつもある(もちろん)。

NHKのBSで「未来への提言」という番組がある(あった?)らしく、その内容が本になって出ているのを見つけ、読んでみた。きょう読んだのはアメリカの理論物理学者リサ・ランドールに宇宙飛行士の若田光一がインタビューした『異次元は存在する』(NHK出版)。ランドールが探究しているのは5次元世界で、彼女によるとわれわれが住む3次元宇宙は、5次元世界にある膜に貼りついたようなかたちで存在するにすぎないのだという。

異次元世界のイメージとしては、イギリス19世紀の数学者アボットが書いた小説『フラットランド』のイメージが有名だ。3次元世界のわれわれにイメージできるかたちで、2次元世界の住民たちのことを語っている。でも5次元は、われわれにはイメージできない。イメージできないからといって、その世界が存在しないとはいいきれないし、実際、そんな世界があると考えたほうが説明しやすい事象もある、そうだ。

たとえば自然界の4つの力「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」の中で(それぞれがグラビトン、光子、ウィークボソン、グルーオンによって伝えられる)なぜ重力だけがひどく弱いのか。(ごく微弱な磁石でも重力にさからって金属、たとえばペーパークリップを吸い上げることができる。)それは重力自体が、5次元世界の時空のゆがみの中で、あるところでは強く、あるところではひどく弱く分布しているせいではないか。宇宙に存在する「重力だけが存在する」ダークマターの秘密も、それにかかわっているのではないか。

といわれてもぼくにはまるで理解できないが、ランドール博士があげる21世紀のキーワードには感心した。「探究心、理解力、友情」。「好奇心、理解すること、友情」と訳してもいいだろう。そして(英語教師としてのぼくは)改めて、英語の強さの秘密を思った。数学好きの少女がこんな風に育ってゆく環境があるのが、アメリカ社会だ。そこでの理論的探究とか(物理学用語のおもしろさ)、彼女のような女性科学者の生き方、闘いの軌跡が、ことばに刻まれてゆく。

宇宙飛行士の若田さんの経験もおもしろい。「地球上で目を閉じるときには、周りが見えなくても重力があるので、上下の方向が認識できます。しかし無重力状態でふわふわ浮きながら真っ暗な部屋で目を閉じてみると、体のどこにも接しているものがないので、自分はいったい、本当はどこにいるのだろうかという不思議な浮遊感を味わいました。まさに、たったひとりで暗黒の宇宙空間を漂っているようなイメージです。」

夜空は見上げることができる。でもその大部分は、何もわかっていない。目に見えないダークエネルギーやダークマターがたくさん存在する。それが5次元空間のしっぽみたいなものかもしれない。想像もつかないが(あたりまえ)、ひどくエクサイティングな気分にかられる。

Wednesday, May 30, 2007

<西アメリカ>という概念=場所

西アフリカということばはあっても、<西アメリカ>はない。アメリカ西部とはいっても、<西アメリカ>とはいわない(と思う)。それでこの名を対象とする共同研究をおこなおうという話が持ち上がっている(というか、持ち上げた)。

アメリカ西部というと、北米大陸に大陸国家(つまり大西洋岸から太平洋岸まで)を完成させた、アメリカ合衆国という統一体の視点に立つことになる。すると、<国家>による区分を受けるまえの、「どんな場所だかよくわからないけどともかく西をめざしてみるか」と考えていた時代の、やみくもな衝動がわからなくなる。<西アメリカ>とは、そんな曖昧な<西>の気分を生かすための呼び名。

アメリカのエコロジー文学の古典とされる『砂のカウンティのアルマナック』で、アルド・レオポルドはひとつの団栗の実に注目していた。団栗の実はもちろんたくさんなるが、成長できるのは1000にひとつ。落ちた場所次第で、芽吹くことができるかどうかが決まる。芽吹いても、うさぎや鹿に食べられることのほうが多い。芽吹くためには、深い草よりは草のない地面のほうがいい。

19世紀後半のある時点で、ウィスコンシン州は、「偉大なる北西部」にむかう幌馬車の群れが通過する土地だった。馬車が通るたび、草は死に、地面は固まる。道はどんどんみずからを道としてゆく。その道端に、団栗が落ちて、芽吹き、成長する。それが小動物の食害にもめげずに成長すれば、やがては大木となる。大木にはある日、落雷があり、樹皮の下の水のある層を螺旋状に電流が降下し、樹皮をはぎ、木を枯らす。枯れた大木は一年ほど放置され、枯れ切ってからおもむろに切り倒される。

<西アメリカ>を場所とする主題は、<荒野><居住><転換>。つまり、人が住めるかどうかわからないところに住むことを試み、成功し、挫折し、その過程でみずからを別の存在へと転換してゆく人々の集合の物語だ。

文学、写真、絵画、映画、哲学、人類学、生物学、地理学、政治史、経済史、およそあらゆる分野をわたりつつ、<西>の魅力と幻想と現実と幻滅の歴史を、その表象と現実のせめぎあいを、つきとめていこうと思う。

この<西アメリカ>研究は、倉石信乃(美術史・写真史)、波戸岡景太(アメリカ文学、エコロジー批評)との共同作業となる。結果はたぶん従来型の「書物」のかたちをとることになるだろうけれど、作業のプロセスにおいてコネクティヴ・ヒューマニティーズの方法論を探る試みでもある。

WATARIDORI

衛星第2放送でWATARIDORI を観た。原題はLe peuple migrateur つまり「渡る人々」。季節にしたがって長距離の移動をくりかえす「鳥の人々」を追ったドキュメンタリーだ。公開時に見逃していて、もちろんいまでは観る気があればDVDを借りてきて観られるのだが、その機会を逸していた。そういうことは多くて、結局「時間がない」を逃げ口上にしている気がする。

考えられないような撮影をおこなっている。撮影時に、群れの中に超軽量飛行機が入っていっても驚かないよう、鳥たちをたくさん雛から育てたという話には感動した。ここまで徹底的に、地球規模の渡りを映像で捉えるとは!

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=3163

群れがいっせいに飛び、水に潜り、ふりむく。その行動ぶりを見ていると、「群衆」の秘密にどこか迫れそうな気がしてくる。いまはちょうど立教の大学院(異文化コミュニケーション研究科の「比較文化論」)でエリアス・カネッティの『群衆と権力』を読んでいて、動物の一斉行動の意味を考えていたので、余計に興味深かった。

一斉行動は、必ず「生き延びること」という至上の命令とむすびついているはずだ。個性は、<はみだし>は、人間のお得意だが、もともとは危険きわまりない行動だろう。それは種内のディスプレイであり、威信につながるかもしれないが、それは捕食者のいない種の贅沢にすぎない。

するとこんどは<ファッション>という現象が、生存と危険な賭けの、混合のように見えてくる。

鳥の身体はあまりに完成されているが、特にその色合い、デザインが、種ごとにどうやってできたのかが不思議でたまらない。

斜線の旅

「風の旅人」26号が発売されました。以下のエッセーを寄稿しています。

「ここがもし聖地でなければどこが」
「風の旅人」26号、2007年6月、pp.19-22.

http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/

第2回 ディジタルコンテンツ学研究会

4月に第1回のゲストとして赤間啓之さん(東工大)をお迎えしてはじまったディジタルコンテンツ学研究会。今週の土曜日に、第2回を開催します。

日時 6月2日(土)午前10時から正午まで
場所 秋葉原ダイビル6F 明治大学サテライトキャンパス
ゲスト 前田圭蔵さん(株式会社カンバセーション取締役)

前田さんは日本の現代文化シーンを確実にかたちづくってきたおひとり。音楽、演劇、ダンスといったジャンルで、目の覚めるような舞台の数々を実現してきた方です。最近のお仕事を挙げると、トリシャ・ブラウン、ローザス、珍しいキノコ舞踊団などのダンス公演、昨年はあの衝撃的なジンガロの公演を実現させるなど、きわめて多岐にわたっています。音楽ではアート・リンゼイの来日公演はすべて担当し、ローリー・アンダーソンの公演にも協力する一方、石垣の唄者、大島保克を紹介。先端的なテクノロジーを使った公演では、池田亮司(ダムタイプ)の映像と音楽によるプレゼンテーションなどがあります。

ふるってご参加ください(司会・進行は倉石信乃)。

コンテンツ批評にむかって

2008年春、明治大学大学院理工学研究科では新しい専攻課程を開設する予定です。

「新領域創造専攻」は、安全学系、数理ビジネス系、ディジタルコンテンツ系の3系に分かれます。この最後のDC系が、ぼくが所属することになる新しい場。その場を使って、ディジタル空間の研究と批評をはじめます。

<ディジタル空間>は現実の空間には存在しないのに、現実の空間とのはざまから映像を、音楽を、文書を、送りこんできます。そしてわれわれの日常生活と、日々を周航してゆく意識は、そうしたディジタルな贈り物によって、どんどん変容をつづけています。

この専攻系には、ディジタルメディアに載って流通するあらゆるコンテンツの歴史と現状をよく理解し、それが社会と生活に与える力を批判的に検討し、いくつもの分野で新しい作品とそれをささえる技術をつくりだしていこうとする者たちが集うことになるでしょう。

DC系の専任教員は、倉石信乃(近現代美術史、写真史)、宮下芳明(ディジタルコンテンツ学)、管啓次郎(文化詩学と批評理論)の3人。倉石さんはもともと横浜美術館のベテラン学芸員、写真評論家であり、詩人。宮下さんは作曲家、映像作家、小説家にして工学博士。名実ともにこの分野の今後を担ってゆく人材です。そして管は過去20年あまり、翻訳をやりながら旅行や言語や書物をめぐるエッセーを書いてきました。

コンテンツ批評は、映像、画像、音楽、書物、ウェブサイト、ゲーム、デザインなど、あらゆるコンテンツを対象とします。コンテンツ批評は、ディジタルメディアの時代の文化研究(カルチュラル・スタディーズ)です。コンテンツ批評は、現代社会における<連結>のかたちを探り、また新たな連結をつくりだす、連結的人文学(コネクティヴ・ヒューマニティーズ)です。

ここでは、主に学生のみんなを対象として「こんな本がある」「こんな考え方がある」といった話題を、不定期で提供していこうと思います。

つまり、このウェブログ自体が、コネクティヴ・ヒューマニティーズの実践の場だというわけ。ここでしか見られない連結のパターンを、これから探っていくことにしましょう。