Wednesday, June 13, 2007

引越しです

先月開設したばかりのこのウェブログですが、次の場所に引っ越します。

http://monpaysnatal.blogspot.com/

いまも続く狂言の伝統をさておいて、私ごとき犬が「タロカジャ」の名を使う僭越を反省して。(最初はその名を何も考えずに2秒で決めていました。)

新しいブログは「私の生まれた土地」の意味。その秘密の土地の空気や光や香りや風や振動を伝えてゆく場に育てていきたいと思います。

それではよろしく!

Tuesday, June 12, 2007

『知恵の樹』10000部に

チリ出身の二人の生物学者、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラの一般向けの本『知恵の樹』をぼくが訳したものが、増刷が決まり、累計1万部に達した(ちくま学芸文庫)。

翻訳は最初、朝日出版社から大判の絵本のようなかたちで出版(1987年)。原著はスペイン語、ぼくの2冊目の翻訳書だった。それが1997年にちくま学芸文庫に入れていただいて、さらに10年を経ても読まれつづけている。こうなるとこの分野の「定番」として定着したと見ていいだろう。ほんとうにうれしいことだ。

生物の「オートポイエーシス」(自己組織化)を、生命が生き延びるためにいかに「世界」を認識するかという視点からまとめた、壮大な地球生命史=認識論。ぼくにとってはいろんな問題を考えるときの発想の基盤をなす、大切な本だ。

パリで活動していたバレーラさんとは、結局手紙のやりとりだけで、彼はもう亡くなってしまった。ほんとうに残念。でもその志の小さな一角を、こうしてろうそくの火を守るように守ることができて、うれしく思う。

たぶん、これからもしばらくは読まれてゆくだろう。かれらの認識の背景にあるのが1973年9月11日のチリの軍事クーデタだという点は、「訳者あとがき」でふれた。悠久の時を相手にするような進化生物学でも、時の状況から無縁ではありえないということに、粛然とした気持ちを覚える。

Cobra Verde (1987)

土曜日。明治大学秋葉原サテライトキャンパスで「ワールドシネマ研究会」の第1回を開催した。

世界映画のいろいろな作品、特に文化間の葛藤を描いたり、小さな民族集団や小さな言語に焦点をあてたりする作品について、自由な議論をくりひろげる場。作品がフィクションかドキュメンタリーかは問わない。どちらでも、自分ひとりではとても気づかなかったような細部が、仲間たちの指摘でくっきりと見えてきて、発見は大きい。

この会は作家の旦敬介さん(明治大学法学部准教授)との共催。旦さん自身、イギリス、東アフリカ、ブラジルでの生活経験が長く、通常の「日本人」とはぜんぜんちがった角度から世界を見ている人だ。

第1回ではドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークの『コブラ・ヴェルデ』(1987年)を取り上げた。ブラジル北東部の冷血きわまりない山賊が、砂糖黍農園主に拾われ、その三人の娘たちを妊娠させ、厄介払いとして奴隷の買い付けのためにアフリカに送りこまれる。ここで奴隷貿易にたずさわる黒人王国の権力争いのせいで、新国王の義兄弟、「副王」に任じられる。ところがそうこうするうちにブラジルでも奴隷制が廃止され(これは1888年のこと)、ブラジルにあるはずの財産はすべて奪われ、彼は海岸で野たれ死に。運命に翻弄された男の、さびしい末路だった。

だが映像はすごい。たしかめようのない歴史上の風景を、監督のすさまじいばかりの想像力が再構成してくれる。筆舌につくしがたいヨーロッパの暴力が、光と色彩にみちた豪奢な場面となって、目のまえで展開する。歴史観(それはイメージにすぎないが)を変えてくれるような作品だ。

おもしろいことに、幼くして父親に捨てられ母親と暮らしてきたヘルツォークが13歳のとき、たまたまアパートに同居することになったのが魁偉な風貌の俳優クラウス・キンスキーだった。13歳の少年は、このとき映画監督になることを決め、キンスキーを使って作品を撮影すると決めたのだという。実際、ヘルツォーク=キンスキーは5本の強烈な作品を残した。『コブラ・ヴェルデ』(緑の毒蛇)は、その最後の1本だった。

原作はイギリスの小説家ブルース・チャトウィンの『ウィダの副王』。チャトウィンとはヘルツォークは親友で、すさまじい旅行家として知られたチャトウィンの愛用のリュックサックは、遺品として死の床のチャトウィンからヘルツォークに与えられた。

ふたりはおなじ1942年生まれだった。どちらも、世間の基準からいえば、奇人を通りこして狂人。でもその狂人どうしの友情を思うと、ぼくなんかはついホロリとする。ヘルツォークについては今後も何度か、ここで取り上げようと思う。

Saturday, June 9, 2007

ヒップホップ再論

明治大学リバティー・アカデミー(一般向け公開講座)のシリーズ「世界文化の旅・アフリカ編」の第3回の講師として、お茶の水のアカデミー・コモンで話をした。

https://academy.meiji.jp/shop/commodity_param/ctc/20/shc/0/cmc/07120007/backURL/+shop+main


それぞれに独特なセンスの持ち主である、必ずしも「アフリカ研究者」ではない6人によるシリーズ。講師全員が毎回集まり、思いがけない展開に介入し、議論する。興味深い、聞いたこともない話がどんどん飛び出して、きわめて刺激的な場だ。

ぼくは1980年代初頭のアメリカ、留学先だったアラバマ州とニューヨークで体験した、創成期のヒップホップ文化の話からはじめた。グラフィティ・アートのキース・ヘリングとジャン=ミシェル・バスキアは、ぼくと完全に同世代。特にバスキアの絵は大好きで、いまでもよく画集を見る。

それからデビュー前のキース・ヘリングに衝撃を与えたタンザニアの画家ジョージ・リランガを見る。ついで当時のブレイク・ダンスを見て、その動きをやはり80年代のセネガルのストリートダンスと比較した。それから西アフリカ起源の動きがハイチのヴォドゥの儀礼ではどうなっているかを、ロシア生まれの天才的実験映画作家マヤ・デーレンが残したフィルムから見た。ひとことでいうと、旋回と足のシャッフルで組み立てるヴォドゥ系の動き(ブラジルのカンドンブレもこの系統)に対して、セネガルのダンスのすさまじい躍動感はなんの共通点もない。ところがブレイク・ダンスには、すべてがある。

そこで話を言語芸術に転じ、ラップの中でも「フリースタイル」と呼ばれる即興的な言語バトルの例を見る。踊りも、言葉のゲームも、たしかに「アフリカ」なのだが、どうにもその起源はたどりがたい。ただし、みんなが環になっている中でひとりずつが目一杯見せ場を作りながら踊るというスタイル(リング・ダンス)はすべてに共通。そしてパフォーマーと聴衆とのあいだに見られるかけあい(コール・アンド・リスポンス)も、たしかにアフリカ的だといっていいだろう。

最後に、カリブ海グアドループの小説家シモーヌ・シュバルツ=バールの作品を手がかりに「奴隷制という傷」にふれ、マルチニックのジョゼフ・ゾベルの原作をユーザン・パルシーが映画化した記念碑的傑作『マルチニックの少年』での老人から少年への記憶の伝承の場面にふれて、おしまい。以後、いくつかの質疑応答で、またたくまに90分は過ぎた。最後に残ったのは、こうした話題ではいつものことながら「ヨーロッパは過去五百年、世界に対していかにひどいことをしてきたのか」という気持ちだ。

終了後、みんなで談笑。こういう時間がいちばん楽しい。ぼくは「アフリカ」や「アフリカ系文化」を直接の研究対象にしたことはないものの、結局過去30年近く、アフロ・アメリカ系文化と完全に平行するかたちで生きてきたなあと思う。この分野でも、まだまだ知りたいこと、考えたいことがたくさんある。

家に帰るとアフリカン・アメリカ文化研究の第一人者である荒このみさんの新著『歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー』(講談社)が届いていた。これでまたひとつ、「アフリカ的なもの」が押し寄せてきた!

Thursday, June 7, 2007

ヴェネツィア想像

青山ブックセンターから、恒例の夏のブックフェスティヴァルのために本を推薦してほしいという依頼をうけました。今年のテーマは「水景」だそうです。すぐ思いついたのが、次の本。で、簡単なコメントをしたためてみました。

ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィアーー水の迷宮の夢』
(金関寿夫訳、集英社、1996年)

「ヴェネツィアといえば水の都。アメリカに亡命したロシアの詩人が、まるで恋人との密会のようにこの都会への旅をくりかえす。生まれたのはごく短い、磨き抜かれた散文の群れ。そう、「人は自分が見つめるものなのだ」。旅先でひとり読めば、さらに心に響きます。」

ブロツキーの英語散文がぼくは好きで、お手本だと思っています。じつはこの翻訳は持っていないのですが、尊敬する故・金関さんのお仕事の中でも珠玉のできばえだという評判。

金関さんの傑作絵本『カニツンツン』は、そういえば息子が言葉を覚えたころの愛読書でした。

Wednesday, June 6, 2007

冒険の風

きょう、ちょっとうれしいことがあった。若き冒険家=写真家の石川直樹さんが、研究室に立ち寄ってくれたのだ。北極から南極へ、全大陸の最高峰へ、ポリネシアから日本列島へ、海、山、空につねに直面する彼だが、写真作品もいまや独自の境地に達している。

この春にあった写真展「Polar」のことは、現在発売中の「風の旅人」の連載エッセーに書いた。昨年の、ニュージーランドのマオリの人々の聖地を撮影した写真集「Void」は本当にすばらしかったが、今年はさらにまったく新しい写真集を構想しているもよう。人が七回生まれ変わってもできないような旅を重ねている彼は、まだ今年でやっと三十歳。これからも前人未到の、肉体と想像力、言葉とイメージの冒険を重ねてくれることだろう。

いつか明治に教えにきてほしいものだと思っている。

石川さんの飄々とした、威圧感やその場との違和感のまったくない人柄を知るためには、数年前のものだが「ホットワイアード」のインタビューが役に立つだろう。

http://hotwired.goo.ne.jp/ecowire/interview/010821/

その中で彼は、明治大学生田キャンパスが生んだ植村直己さんのことを「最後の冒険家」と呼んでいる。その自覚に、また衝撃を覚える。

Monday, June 4, 2007

Evelyn Glennie

失敗、失敗、大失敗。ユーチューブで「クラッピング・ミュージック」を見たイヴリン・グレニーのことを書いたら、なんとつい先週末、5月26日から28日にかけて、川崎、各務原、武蔵野の各市で彼女のリサイタルがあったばかりだった! ざんねんすぎる。泣けてきた。行っても泣いたにちがいない。ほんとうに残念。この広い地球で、彼女が確実に10キロ以内にいたというのに。

日々がつまっているので、どうせ出かける余裕はないなと思って、はなからチェックしていなかった。するとこんなに重要なイベントも逃してしまう。人生を変える機会を。せめて彼女のビデオを手に入れて、じっくり見ることにしたい。反省!

Sunday, June 3, 2007

インターネットと利他主義

『バカの壁』という大ベストセラーで知られる解剖学者の養老孟司さんのお名前をはじめて知ったのは、20年あまり前のこと。当時ぼくが編集部でアルバイトをしていた、「エピステーメー」というすさまじい思想雑誌に寄せられていたミシェル・フーコーをめぐるエッセーでのことだった。彼が異常なまでの読書家であることはすぐ明らかになり、その平易ですさまじい速度のある思考=文体のおもしろさも、基本的にはそのころから変わっていない。洒脱といっても軽妙といっても微妙にちがうが、ぞっとするほどの深みが、ともかく何の飾り気もなく、惜しみなく提示される。変わった人物だ。

さて、その養老さんの新著『小説を読みながら考えた』(双葉社)に、こんなエピソードが紹介されている。

「人より先に情報を手に入れること、それが重要になったのがいわゆる『近代』である。ビジネスではそういうことが大切なのかもしれない。ロンドンの証券取引所に行くと、ロスチャイルドの柱というのが、いまでも残っているそうである。ウォータールーの戦いで、ナポレオンが勝ったか、連合軍が勝ったか。当時は情報の流れが遅かったが、ユダヤ人であるロスチャイルドは、他人より早く連合軍の勝利を知った。そこで英国国債を大量に売りに出す。ロスチャイルドが国債を売ったということは、連合軍の敗戦だ。そう周囲は判断して、大勢が国債を売りに出したから国債が暴落した。そこでもう一度それを買い占めたのがロスチャイルド本人である。その売買の指示を出していたときに、ロスチャイルドが寄りかかっていた柱が、ロスチャイルドの柱だというわけ。/科学ではどうかというなら、『新しい』ということは、十九世紀以来の科学では必須である。『それはだれかがすでに見つけたことだ。』そういうことに、科学は一切価値を認めない。私自身はそういう世界が嫌いだから、途中で降りてしまった。ビジネスもやったことがない。」(156−157ページ)

人よりほんの少しだけ早くある情報を入手したかどうかで大きな損得を競い合う世界には、ぼくもまったく興味がないばかりか、大きな嫌悪感を覚える。商売だけでなく、たとえば人がもっていない本や資料をもっているからそれで書ける「論文」を競い合うような研究なら、それもまたはなはだバカバカしく思える。自分が関わっている文学研究を例にとっても、人が読まない本を読む人たち(草稿研究や古い写本や歴史のアーカイヴに埋もれたすべて)を心から尊敬するものの、ぼく自身はむしろ誰でも買える文庫本の作品を読んで、その読みを深める方向の仕事をしたい。こうしたことは性格が決めるのだろうが、情報格差で自分の優位を確保するような姿勢は、なんの創造ももたらさないだろう。

梅田望夫さんと茂木健一郎さんの対話本『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)は、ぜひみんなに読んでほしい名著だが、その中でおふたりがインターネットのinsanely great (狂ってるんじゃないかというくらいものすごい)性格について述べている一連の言葉が、特に印象に残った。情報は独占せず無償で人と共有すべきだ、というのがインターネットの基本思想。梅田さんは、インターネット世代の一部の若者たちについて、こういっている。

「彼らの世代には、情報の私有というものを悪だと思っている人が出てきていますよね。自分が隠匿しておくことに罪悪感を感じる。情報だけではなくて、モノをもたない、ということのほうが正しいと思っている人がいます」(161ページ)

衝撃的な、そして衝撃的なまでに正しい、態度だと思う。ある種のやみくもな利他主義こそ、インターネットという自己組織的な「現象」の最大の功績であり、これだけが「世界」に、これまでにありえなかったかたちでの共同性をもちこむことだろう。

いまディジタルメディアとディジタル情報を学ぶみんなにも、これだけはいいたい。人よりほんの少し早く何かを知っているからといって、それで儲けようと思うようなケチな人間にはならないでくれ。勝負を賭けるなら、だれでも知りうるものを素材として、だれも夢にも見なかったものを作り出すところで勝負してくれ。それこそ創造、それこそ発見。その発見が利己的な経済回路にふたたびくみこまれてゆくなら、そのときには大学もその役目を果たしていないということになるだろう。

この世界を少しでも住みやすいところにするという、大きな枠組での使命を。

Saturday, June 2, 2007

ダンスのほうへ

土曜日、ディジタルコンテンツ学研究会の第2回を秋葉原ダイビルで開催した。今回のゲストはパフォーミング・アーツのプロデューサーである前田圭蔵さん(カンバセーション)で、1982年を大きな転回点とする音楽のデジタル化を中心に、大変に興味深いお話をたくさんうかがうことができた。いつものメンバーに加えて、「音楽文化論」の授業を担当していただく陣野俊史さんも参加。

1982年、それはデジタル・シンセサイザー、ヤマハDX7の発表の年。早速、イエロー・マジック・オーケストラがそれをアナログ・シンセサイザーと併用しはじめ、他にもいろいろな人々が使うようになった。ぼくらにとってはリアルタイムで通過してきた昨日だが、学生のみんなにとっては自分が生まれる前のできごと。思えば遠くへ来たもんだ。

記録メディアの変化としては、カセットテープと並んでデジタル・オーディオテープ(ダット)が登場し、またCDがもっとも普通の音楽の流通形態となった。その後もアナログとデジタルの併存で音楽産業は進んできたが、一時は「消滅する」と思われていたアナログ・レコードが、まもなく再評価されるようになる。ひとつには、その周波数帯の広さのせいで、だんぜん音がいいから! もうひとつには、ターンテーブルを使用するDJのスタイルが、90年代にひろまったから。つまり、流通形態を規定し一本化しようとする産業に対して、受け手の側が「ちょっと待て、古いものといってもその生命は終わらない」といいはじめたわけだろう。

前田さんの指摘でおもしろかったのは、次のことば。「クリーンなサウンドとアンクリーンなサウンドはつねに拮抗して発展してきた」。平均律による西洋音階は、明らかにクリーンなものを希求する方向性にあり、純化をめざす意志をもっていた。ところがなぜか世界の他の地域ではペンタトニック(5音階)が基本で、なんとなく自然にそうなっているのだそうだ。きちんとした配分に立つ、整然とした音階ではなく、ゆれ動き上下し周囲と呼応しながら生まれてくる旋律、ということだろうか。西洋(西欧)の秩序や建築への志向も考えさせられる。

また前田さんはダンスに深い関心をもち、いくつもの重要な公演をプロデュースされてきたが、ダンスを音とパラレルに考えている。「体というだれでももっているものによる表現に惹かれる」ということばに、深くうなずいた。人間のからだはスーパーアナログコンテンツなんだ、と前田さんはいう。舞踊の発生そのものが、おそらくヒトが目にした自然物の動きへの同調、類推(アナロジー)に立つ身振りだったことを思えば、これはまさにそう。

それからいくつかのパフォーマンスのビデオを、部分的に見せていただいた。モントリオールのラララヒューマンステップスによる「アメリア」。限界的な超高速で動くダンサーに息を呑む。これは舞台作品を、コレオグラファーのエドゥアール・ロック自身が映像作品に仕立てたもの。ルー・リードのI'm Waiting for the Manをすごくへんなアレンジで歌っているのを使っていたみたい(要確認)。

前田さんの指摘どおり、映像化されることで、実舞台では見ることのできない距離から、しかもいくつもの視点を渡り歩きながら見ることができる。ダンスといえば臨場感がすべて(だってミラー・ニューロンの発火の頻度がちがう)だと思いたくなるが、舞台の一断面にすぎないような映像作品にも、それでなければ見えてこないことはたくさんある。

もうひとつ、ブリュッセルを本拠地とするローザスの「トップショット」には感動した。スティーヴ・ライヒの曲「ヴァイオリン・フェイズ」を使い、床にしいた砂の上で回転の多い動きで踊る女性(アンヌ・テレーサ・デ・キースマイケル)のソロを頭上から撮影。これは実舞台ではありえない視点だ。彼女の動きにつれ、床にはその軌跡が環を描き、さらに環を十字に分割してゆく。すばらしい、すばらしい作品。ぽかんと口をあけて見とれてしまう。あまりにいいと思ったので、家に帰って最初にしたのはローザスのDVDを注文することだった! こうした映像作品が手頃な価格で流通するには、もちろんデジタル技術が全面的に関わっていて、これはたしかに便利。おととし東京都写真美術館でローザス展があったそうだが、そんなことも知らなかったとはいったいぼくは何をしていたんだろう。あ、日本にいなかったか。

スティーヴ・ライヒの音楽もCDを2、3枚はもっているはずだが手元にないため、ユーチューブで検索。すると「名古屋ギターズ」というギター2本の作品が出てきた。エレクトリックギター2本のものもおもしろいが、スウェーデンのザ・ゴーテンブルク・コンボというデュオがアクースティックギター2本で演奏しているものがすばらしい。また「クラッピング・ミュージック」もいくつか出てきた。拍手だけで「演奏」している男女のグループ、床にぶつけるボールの音で演奏しているジャグラーのグループ、それぞれにおもしろいが、イヴリン・グレニーという女性のソロパフォーマンスが群を抜いてすばらしい。

こんな映像が自分の部屋で瞬時に見られるんだから、ユーチューブはアナーキックだ。今回の前田さんのお話で改めて思ったのは、どんなテクノロジーもそれが生まれると、ただちにそれを使って「実験」的な「創作」にむかう人がいるということ。アーティストって、すさまじいやつらだ。世間に一般化する何年前なんて、いうのもむなしくなる人がごろごろいる。逆にいえば、これだけいたるところで連結の火花が散る環境が現実になって、「実験」にも「創造」にも世界の「想像」にもむかわずにすませることは、できない。想像、再想像、差異の想像、再創造へ。

さまざまな分野のアーティストたちからの刺激を媒介してくれる前田さんに、あらためて感謝したい。さあ、こっちも何かやろう。どんなレベルの技術や身体を使うにせよ、「実験」はいつも可能だ。次回のディジタルコンテンツ学研究会は6月30日(土)を予定している。

読書日録

文芸雑誌「すばる」に7月号から3回、「読書日録」を短期連載します。本格的な書評よりはずっと自由に、日常生活の身辺雑記的要素を入れながら書いていけるので、なかなかおもしろい試みになりました。

「読書日録」、「すばる」2007年7月号、pp. 318-319.

今回とりあげた本。

港千尋『文字の母たち』(インスクリプト)
松田行正『はじまりの物語ーーデザインの視線』(紀伊國屋書店)
前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社)

Friday, June 1, 2007

デジタルな闇の明るみ

デジタルカメラやプリンターの性能の向上はすさまじく、初期にはひどくだらしない画像しか撮れなかったものが、いまでは素人目には銀塩フィルムの写真と区別がつかないほどになった。実際、フィルムで撮影している写真家が、大きく引き延ばしたプリントを作るときには、デジタルにスキャンしてプリントするのだという話を、すでに2、3年まえに聞いたことがあった。肉眼では見分けがつかない微細さが、とっくに実現されているということだろう。

それはそれでいい。だが一方で、荒木経惟さんがこんなふうに語っているのを新聞で読んだ(「朝日新聞」夕刊5月31日)。

「最近はさ、週刊誌に出てくる女の子がみんなお人形さんみたい。きれいというのは魅力的とは違うんだ。デジタルになって、修正技術も良くなったでしょ。実際はあんなきれいな人なんていませんよ。でもそれは整形手術のようなもんだ。/デジタルカメラも使わないこともないけど、たとえば闇がきれいに撮れる。闇は闇の方がいいのにさ。ほら、秘すれば花っていうだろ。オレの場合はそこを広げて撮っちゃってるけどね。『67 反撃』はデジタルへの反撃でもある。」

他のどんな写真家よりも「触覚」を感じさせる荒木さんがそういうと、こっちも耳をそばだてる。デジタルカメラが、これまでには表現しえなかった微光をきちんと捉えることは、多くの人が指摘してきた。夜明けの光、蝋燭の灯り。だが、ここでは、むしろ、<鈍さ>が肯定され、過ぎ去ろうとしている(?)テクノロジーが賞揚されている。

正直なところ、フィルム写真とデジタル写真は、どんどん見分けがつかなくなりつつある。デジタル技術固有の問題は、たぶん画像の鮮やかさ、発色、輪郭といったことばには、もう関わらない。けれどもリタッチされた画像が、もともとの「触覚」の領域にある画像を超えて、われわれの「現実」感覚に微妙な影響を及ぼさないとはいえないだろう。

画像のデジタル処理により、だれかが「完璧な卵形」を実現した。人々はそれを見て、「これぞ卵だ!」と思った。ところが現実に自分が食べる卵は、どこかいびつにゆがんだ不完全な卵ばかり。人々はゆで卵を見るにしのびなく、すべての卵はオムレツになった、とか。

『隣のアボリジニ』の隣へ

「ユリイカ」6月号・上橋菜穂子特集にエッセーを寄稿しました。

「『隣のアボリジニ』の隣へ」pp.150-157.

小説家・上橋菜穂子の文化人類学者としての仕事と感受性に焦点を当てたものです。