Wednesday, May 30, 2007

<西アメリカ>という概念=場所

西アフリカということばはあっても、<西アメリカ>はない。アメリカ西部とはいっても、<西アメリカ>とはいわない(と思う)。それでこの名を対象とする共同研究をおこなおうという話が持ち上がっている(というか、持ち上げた)。

アメリカ西部というと、北米大陸に大陸国家(つまり大西洋岸から太平洋岸まで)を完成させた、アメリカ合衆国という統一体の視点に立つことになる。すると、<国家>による区分を受けるまえの、「どんな場所だかよくわからないけどともかく西をめざしてみるか」と考えていた時代の、やみくもな衝動がわからなくなる。<西アメリカ>とは、そんな曖昧な<西>の気分を生かすための呼び名。

アメリカのエコロジー文学の古典とされる『砂のカウンティのアルマナック』で、アルド・レオポルドはひとつの団栗の実に注目していた。団栗の実はもちろんたくさんなるが、成長できるのは1000にひとつ。落ちた場所次第で、芽吹くことができるかどうかが決まる。芽吹いても、うさぎや鹿に食べられることのほうが多い。芽吹くためには、深い草よりは草のない地面のほうがいい。

19世紀後半のある時点で、ウィスコンシン州は、「偉大なる北西部」にむかう幌馬車の群れが通過する土地だった。馬車が通るたび、草は死に、地面は固まる。道はどんどんみずからを道としてゆく。その道端に、団栗が落ちて、芽吹き、成長する。それが小動物の食害にもめげずに成長すれば、やがては大木となる。大木にはある日、落雷があり、樹皮の下の水のある層を螺旋状に電流が降下し、樹皮をはぎ、木を枯らす。枯れた大木は一年ほど放置され、枯れ切ってからおもむろに切り倒される。

<西アメリカ>を場所とする主題は、<荒野><居住><転換>。つまり、人が住めるかどうかわからないところに住むことを試み、成功し、挫折し、その過程でみずからを別の存在へと転換してゆく人々の集合の物語だ。

文学、写真、絵画、映画、哲学、人類学、生物学、地理学、政治史、経済史、およそあらゆる分野をわたりつつ、<西>の魅力と幻想と現実と幻滅の歴史を、その表象と現実のせめぎあいを、つきとめていこうと思う。

この<西アメリカ>研究は、倉石信乃(美術史・写真史)、波戸岡景太(アメリカ文学、エコロジー批評)との共同作業となる。結果はたぶん従来型の「書物」のかたちをとることになるだろうけれど、作業のプロセスにおいてコネクティヴ・ヒューマニティーズの方法論を探る試みでもある。

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